長編野球小説<がんばれ播但キャッツ> ③
左投げのピッチャーは、ねらったところにボールが行ってくれない。
いちばん苦手なのは、左打者の内角だ。
ゲームの初回とか、心ならずもランナーを溜めたとき、たいてい左が出てくる。
そんな場面でホームベースに被さるようにチビの左バッターが出てくると
殺意というより逃げ出したくなる。
初回の一番打者から逃げ出すもないものだが、
いたしかたなく判で押したように外角に投げる。
正確には、左打者ならホームベースのやや右寄りを狙う感覚で投げると
キャッチャーの谷口の左すね、レガースの辺りにスライドして行く。
研の長い左腕が、アームのようにしなって白球が放たれた瞬間
左打者は腰が引ける。死にたくないからだ。
185センチにもなる長身のサブマリンが腕をくねらせて投じるフォームは
芸術的ですらある。ただしいきなりワンスリーは、当たり前だ。
むかし、ノーコンですぐワンスリーにするんで
下の名前をもじって高橋ワンスリーと言われた投手もいた。
秋から冬場、単調なトラック走や、100メートルダッシュ
苦手な唐船(からせん)の砂浜での持久走を繰り返しているうちに
田舎の野球部では最初から抜きんでていた研の球速が増した。
そして事件が起きる。
2年まえ11月の終わり、捕手を立たせてしばらくウオーミングアップをしたあと
ようやく投じた初球を捕手が顔面で捕球した。
怪我は大したものではなかったが、キャッチャーをやる者がいなくなった。
正確には当事者の正捕手・同級生の山田が外野に逃げたのだ。
研の球を受けるくらいならキャッチャーはご免こうむるというわけだ。
その日以来、キャッチャーは谷口俊平がやっている。
俊平は幼稚園のころからの研の腐れ縁で、もともと器用な男である。
それまではショートをやっていたのだが試合の終盤
投手が真っ青なるとホイホイとマウンドに現れて、ワンポイントでしのぐ。
俊平と研それに外野に逃走した山田が塩田高校野球部の得点源だ。
忘れかけていたが2年の春の練習試合で、かわったことがあった。
イニングの始まるまえ、打席のそばで素振りをしていた研に
ボランティアでアンパイヤをやっていた中年のオッサンが
ホームベースをハケで掃きながら研に、語るともなくささやいた。
<自分、野球好きかぁ?。ワシのツレに紹介しとくわ。誰にも喋べんなや、>
そ の1年後、3年の夏の予選、塩田高校野球部は予定通り4回戦で敗退した。
負けたあいては、全国レベルの強豪校である。
所詮、塩高は打力が無いのだが、
いくら研がしのいでも強豪校の3番手クラスの投手から
わずか1点では、試合にならない。
試合後、明石運動公園野球場脇のトイレで用をたしていた研に
ささやきかける色黒のおとこがいた。
<野球、いつからやってんねん?。
へぇ、1年もたってないんか。ひとつだけ言うとくわぁ。
いまのフォームのままでええ。制球にはコツがあんねん。
そんなん気にせんでえぇから。いまの投げ方は、誰にいわれても
変えたらあかん。>
帰りのバスの中で俊平が聞いてきた。
<研、いまのオッサンだれや?>
<知らん。試合のとき、たぶんバックネットのすこし上段に居てたなぁ。>
このあと研たち3年生は引退し2年生を中心に新チームのチームつくりが始まる。
2013年の、研と俊平の短い夏が終わった。